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仕事をつくる / 安藤忠雄



   中学校二年生のとき、自宅の長屋を改造し、二階建てに増築した。若い大工が一心不乱に働く姿を見て、建築という仕事に興味を持った。大阪の典型的な下町に育ち、ものづくりには小さいうちから関心があった。しかし、家庭の経済的理由と学力の問題から大学進学を諦めざるを得なかった私は、独学で建築を学んだ。

   しかし、独学といっても勉強の仕方がわからない。京大や阪大の建築科に進んだ友人がいたので相談し、教科書を買ってもらった、それをひたすらに読んだ。彼らが四年間かけて学ぶ量を一年間で読もうと夢中で取り組んだ。朝起きてから寝るまで、ひたすら本に向かった。一年間は一歩も外に出ないくらいの覚悟で本を読むと決めて、やり遂げた。

   辛かったのは、ともに学び意見を交わす友人がいなかったことだ。自分がどこに立っているのか、正しい方向に進んでいるのかさえわからない。不安や孤独と闘う日々が続いた。そうした暗中模索が、責任ある個人として社会を生き抜くためのトレーニングとなったのだろう。

   作図の基礎、グラフィックデザインなどは通信教育で学んだ。しかし文筆家が膨大な量の本を読むのと同じように、建築家は空間を身体で体験する必要がある。(中略)22歳。大学に入っていれば卒業の年にあたる時期に、たった一人の卒業旅行を企てた。大阪から四国に渡り、四国から九州、広島を巡って北上し、岐阜から東北へと、建築行脚をこころみた。

   中でも衝撃的な体験をしたのは、広島の平和記念資料館を夜、訪れた時だった。11時、周囲は静まりかえり、ほとんど光のない中で、ピロティー越しに原爆ドームの不気味な姿を見た、戦争の無残さをひしひしと感じた。建築雑誌で見て目に焼き付いていた平和記念資料館のモダンで端正な表情はそこにはなかった。生の空間の迫力に、建築の持つ力をまざまざと思い知らされた。自ら体験し、学び、得た感動は、本や伝聞では決して伝わらない。


   高卒の私が二級建築士の資格を受けるには、まず7年の実務経験が必要だという。その時には絶対に一発で合格しようと覚悟を決めた。しかし、昼間の仕事から帰るともうくたくたである。そこで昼飯の時間を節約することにした。朝に買ったパンをかじりながら建築の専門書を読むのである。日曜日には、電車で京都や奈良に出かけて寺社を訪れ、そこで本を広げた。当時、二級建築士の試験は主に木造建築だったから一挙両得であった。(二級、一級ともに一発合格)気力、集中力、目的意識。強い思いを持つことが、自らに課したハードルを越えさせる。

   旅はひとりに限る。ただ一人見知らぬ国を歩く。目指す建築をやっと見つける。不安な道中に希望の光がみえる。建築をめぐりながら、自分自身と対話する。まさに歩きながら考える。若い頃、何度となくこんな旅を重ねた。

   私は20代の旅の経験から多くのことを学んだ。一人旅の道中では、考えることしかない。逃げることができない。お金もない。言葉も通じない。思い通りにいかないことが多く、毎日が不安と緊張の連続。頼りになるのは自分の身体ひとつ。しかしそれは、人生も同じことなのだと思う。

   周囲からは「事務所を東京に移したら」とよく言われるが、、そのつもりは毛頭ない。私は大阪に生まれ育ったことに誇りを持っている。とくに昭和の初めに道路幅四十三メートル、長さ四キロの御堂筋を構想した時の関一市長と、それを実際に作り上げた大阪の市民を思うと、この街に生まれてよかったと心から思う。独学で建築を学び、学歴も社会基盤もない私をそだててくれたのは、大阪の街と人だと考えているからだ。


   私が初めてつくった住宅は、後年、私の事務所として譲り受けることになったが、長屋の端部を切り取って、コンクリートに置き換えたもので、「都市ゲリラ住宅」と名付けた。建築雑誌に掲載されたその住居を見て、電通に勤務されていた東佐二郎さんが、自分の家も同じようなことができるのではないかと設計を依頼主してこられた。1975年だった。
 「住吉の長屋」と呼んでいるこの住宅は、三軒長屋の真ん中をカットし、コンクリートの箱を挿入したシンプルな構成だ。間口わずかニ間、奥行き約八間の小さなものだが、平面を三分割して中央に中庭を設けている。外部は全く窓のないコンクリートの壁で覆い、さわがしい外界とは隔絶させた。光や風など自然の要素すべてをこの中庭を介して入れることで、狭い空間の中に大きな宇宙をつくりだそうとした。

 (海外での個展開催について)現実の仕事においても、新しいことに挑戦する際には大きな不安を伴う。しかしそれを乗り越えて始めて得られるものもある。挑戦ははまた、多くの敵をつくる。展覧会は自分の建築への思いや考えを発信する場だが、好評で迎えられることはほとんどなく、多くの場合、批判の目にさらされる。しかし、批評の場にみずからを置くことで、自分を見直すことができる。その経験は、後々までの大きな力となる。
(中略)一歩を踏み出すことこそが、世界を拓いていくのだ。世界は広く、知らないことが多い。いくつであっても新しいことへの挑戦が、また新たな可能性をうみだす。




   世界的建築家、安藤忠雄氏の講演を聴く機会に恵まれました。氏の肉声は初めてでしたが、本音とド根性を笑いで包んだ歯切れいい関西弁で、楽しく、刺激に溢れた時間でした。

   世界で活躍する氏の眼からは、野生味もひたむきさも薄れた日本(特にサラリーマン男性)は「取り残される」と映って仕方ないそうです。「売上、利益。けっこうですが、そればっかりで終わるんですか?日常で記憶に残るものは何かありますか?それがない人生はつまらないですよ」。

    挑発的ともとれる氏の言葉。しかし、氏が拓いてきた道は、堂々たるもの。それは世界的な実績はもちろんですが、自分に課した掟を守り、ファイトし続けていることに他なりません。本書を読むまで、まさかプロボクサーだったこともあるとは、知りませんでした。当時のチャンピオンの練習を見て、自身の才能に見切りをつけたそうですが、恐らくそれ以外にもいろいろな可能性もあったのではないか、と思わせるバイタリティです。

   氏は、誰かに委ねることを嫌います。たとえ敗けても自分で考え動き、責任を取ることを勧めます。氏もそうやってきた。いや、氏こそそうやってきた。

 「長く、会社に縛られすぎてませんか?」。世界はもっと広く、人である自分の感性を揺さぶる芸術や文化に気づかず、生物である自分の野生に訴える刺激を避けていないか、と。

   氏のつくった住宅。実際の話、建築には予算の制約が非常に多いことを断ってから、以下のエピソード
①三階建て
②絵画のギャラリー有り
③足が伸ばせる風呂有り
以上3つの要求をしながら、実はカネがなく、土地は8坪という施主に対してどうしても③が実現できない。そこで、氏が「こうしました」と映したスライドが「近所の銭湯」。
これは笑いました。さすが関西人。有名な「住吉の長屋」同様、「環境を楽しむ」ための割り切り(笑)。「いや皆さん、ホンマですよ。この銭湯に行く途中に花屋はあるわ、囲碁やってるところあるわで、家で風呂入るより、よっぽど楽しいやないですか」。

   氏は言います。なんで、クルマの中からガレージの扉が開かないといけんのか、アホか。それが本当にいいことなのでしょうか、と。楽をすることと、自分の置かれた位置を生きることは違う、と理解しました。

   今を生き切る。氏の話をそう解釈したのです。笑いながら、何か揺さぶられるものを感じて。

   真剣にやっていれば、終電の時間なんて気にならない。大阪から京都までなんて、歩けばいい、という話がありました。実際、広島から大阪からまで学びに来た学生に「広島くらい歩いて帰れ」とイキオイ言ったら真に受けられて、その学生さんは8日かけて本当に歩いて帰った(!)そうで。

   後年、その学生さんに偶然あったところ、「学生時代に学んだことは全て忘れたけど、あの体験は忘れられない」とか。思い出になる体験をみずからを創ること、好奇心とバイタリティを改めて奨励されていました。

   その講演で、サイン入り著書のチャリティー(自ら立ち上げた震災復興基金)があったので、これは縁だ、こういうタイミングこそ逃がさないようにしないと、と買ったのがこの本です。

   私の名前を入れてくださっている氏に「今日は刺激をいただき、本当にありがとうございました。実は、広島から来てるんですが、オレもいっちょ歩いて帰ってみようかって思いましたわ」と話すと、氏もスタッフさんも大笑いしてくれました。

   あれだけのビッグネームともなると、批判的に見る人も少なくないですが、一人の人が自身に対して成し得る営みとしてだけでも、素晴らしい生き方と思いました。

   それに比しての卑小な自分であることよ。かつて、氏が戦慄した平和公園で本書を読みながら泣けてしまいました。そして、氏が仰ぐイサム・ノグチのつくった橋を渡りながら、少しの勇気が出てくるのを感じたんです。
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