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ヘレン・シャルフベック  魂のまなざし/奥田元宋・小由女美術館



 テレビで紹介されていて、少し気になっていた女流画家さんです。
 
 いずれ広島にも巡回するということで、出張中には行かないで待っていましたが、昨日行ってきました。ヘレン・シャルフベックさん。
 
 
 生涯を独身で過ごし、死ぬ直前まで創作をやめなかった「絵筆とともに生き、死んだ人」。二度の大きな失恋による痛み、忍び寄る老いと死を自画像に表現し続けた不屈の芸術家。
 
 と、いう紹介と代表作をテレビで見たわけですわ。もちろん、知りませんでした。
 

 こちらも初めての、奥田元宋・小由女美術館。広島市内から一般道で約2時間の三次市にある、素敵な建物でした。家族が各々出かけた休日に、私も自分の行きたいところに行った次第です。


 
 

 代表作の「恢復期」。病み上がりの少女が新芽を見つめる姿だそうですが、その2年前(シャルフベックさん23歳。当時の写真も展示されていましたが、大変な美人でした)に手紙一通で一方的に婚約を破棄された痛手から立ち直りつつある「精神的な自画像」という評価の作品とのこと。
 
 
 実は私、いろんな画家さんの絵を見ても、どんな人だったのかなんて想像も、性別や年齢なんかも見当つきません。評論家でもないし、好きかどうかだけで見てるだけですし。

 
 だから、こういう情報を私が仕入れすぎると、わかりもしないくせになんやかやと解釈しようとするので自制しております。

 この「恢復期」前後の絵を見ても、たとえば「母と子」という、婚約破棄され後~「恢復期」の間の作品は、「なんで女の子の顔は描いてないのか」「若い母親が抱きしめてる」「窓が半分だけ開いてる」等々。



 わかってんのか、オレは(笑)。いや、なんもわかってないです。



 そういえば女性の画家さんの個展は初めてだなぁ。とか思って気がつきましたが、「女流画家」って言葉そのものが女性の画家が少ないってことなんでしょう。

 彼女が18歳で留学したパリですら、当時は女性の美術学校入学を認めていなかったこと。その頃の彼女の日記に「画家で独り立ちできないから結婚を選ばざるを得ない」同世代の女性画家仲間に触れられていたこと。老いた母と二人で暮らす上で、(収入のためにやっていた)教師と家事全般をこなす故に創作活動がままならなかったこと等々。

 手痛い失恋以外にも彼女の創作を妨げることが数多くあったことに驚いた次第です。


 でも同性を見つめる優しい視点(可愛がっていた姪御さんを描いた絵の優しいこと)、当時のファッションにも敏感であったこと、女性ならでは、なのでしょう。








 母親も亡くなり、一人で創作に打ち込んでいた50代半ば。二度目の大きな失恋があったそうです。

 
 郊外に一人住む彼女を訪ねてきた19歳年下の青年。森林保安員のこの青年は画家でもあり、何より彼女の芸術の熱心なファンだったとのこと。意気投合の後に、シャルフベックさんは彼に恋をしたそうなのですが、青年は別の女性と婚約。


 自画像を多く残したシャルフベックさんですが、その直後に描いた自画像は悲痛なものです。


 別の絵の裏側に残っていた自画像。未完成の上、パレットナイフで何度も傷つけた後さえ。

 
 会場では、この絵の視線の先に、去って行った青年をおぼろげに描いた彼の肖像画が。



 別なところに展示されていましたが、こちらも恋を失って悲嘆にくれる女性の姿です。



 人がときめき、絶望したことを表現者が自ら描き残しているエピソードは劇的すぎますが、一個人としてはこういう話が後世に(しかも海越えて)残るってのも辛いっすねぇ。

 そして、表現者の(凡人よりはるかに大きな)エネルギーが自身の傷ついた内面に向かうことの恐ろしさ。こうして形にしなければ、自分を殺すしかないんじゃないかって、慄きながら見ていました。



 そう言えば、20代の一方的な婚約破棄事件(事件っすよ、マジで)の相手の男性は今も謎だそうです。それは、彼の名前を記した全ての手紙の破棄を望んだ彼女の願いをすべての友人が守り通したから。


 生涯、お友達に大変恵まれていたシャルフベックさん。きっと彼女自身のお人柄だったのでしょう。こんな素敵な女性を当時の男性は見過ごしたわけです。


 これらエピソードが強烈すぎて、そういう解釈とかがつきまとうみたいなのですが、恋愛対象としては去って行った青年との交流は生涯続き、彼も創作のサポートや彼女の芸術に関する著作を発行するなど、男女の仲とは異なるながらも終生彼女を支え続けたそうです。

 50を過ぎて恋を失うことは辛すぎますが、その年齢だったからこそ、さすがに大人でいられたのか。わかんないですが、死ななくてよかった。


 生き続ける彼女が描いていった作品は、かつて自分が描いた作品やエル・グレコの再解釈版(「恢復期」のそれは、単純化されてとてもキュートでした)。そして、死が近づいてくる自らの肖像。






 画家さんが、写真のような絵から始まって、抽象に近づいていくのって多いような気がします。いろんな目に見えるものを削ぎ落としていったら、シンプルなものが残るのでしょうか。なんか、画家さん自らが絵の中に入って行ってしまうような感じを勝手に思っております。

 最後の自画像は、もう塗ってない部分も多く。





 絵を見るために絵の前に立つのですが、その位置はかつて画家本人がいた位置に近いことを思うと、いつも不思議な気分になります。

 思うに任せないことの多かったであろう日々を懸命に生き、それを表現した方が、かつてここでこの絵を見つめたんだ。



 行って良かったです。本当に。
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