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ビフォア・ザ・レイン


 
 3部の短編からなるストーリー。
 
第一部「言葉」
 
 中世かと思うようなヨーロッパの高地。美しい湖と山、そして星空。それでも、子供らは弾丸で遊び、大人たちは新鋭の銃をぶらさげ、ここが争いの近く(ただ中?)にある土地であることをほのめかします。
 
 東方正教の修道院。威厳ある年配者に交じって、敬虔な若き修道士が一人。宗教画を見つめる目はほとんど性的な憧れのよう。
 
 静かな暮らしを破ったのは、ある晩、彼の部屋に「かくまって」と忍び込んできた、少年のように髪を刈りこんだ一人の娘。そして、夜が明けてやってきた、怒りに震える3人の武装した男たち。
 
 「兄貴を殺したアルバニアの娘を出せ」
「マケドニア人のくせにアルバニア人をかくまうのか」
 
 彼らの目は逃れましたが、その夜のうちに他の修道士たちの知るところに。二人が深夜にそっと放逐されたのは、せめてもの温情でしょうか。 
 
 夜通し歩いた二人は、銃を手にした別の男たちに囲まれます。それは娘の縁者であるアルバニア人たち。 「おじいさま・・・」と娘に呼ばれた長と思しき老人は、娘を激しく殴打します。
 
 「マケドニア人を殺したのはオマエなのか!血は血を呼ぶのだ!なんたることを!」
「このあばずれめ!だから髪を切ったのに!」
 
 修道士(だった若い男)は、娘の必死のとりなしで無傷のまま追い立てられます。何度も何度も振り向く男。「待って!」と走り出す娘。
 
 「止まれ!止まらないと撃つぞ!!」 そして・・・。
 
 
第二話「顔」
 
 舞台はイギリス。報道写真のエージェントに勤める美しい女は、自らの初めての妊娠に気づきました。 夫とは別居中。その原因になった恋人はマケドニア生まれの戦場写真家。取材中のはずだった彼が突然現れます。


「俺はもうやめた。これ以上続けられない・・・」 人を殺してしまった、と言います。かける言葉もなく、タクシーの中で抱擁する二人。
 
 「マケドニアに一緒に来てくれ、そこで暮らそう。明日発つチケットを渡すよ。俺は本気だ」 その晩は夫と離婚について話し合う予定の彼女。彼を愛しながらも、今の暮らしも捨て難く・・・。
 
 レストランでの夫との話し合い。妻の懐妊を知った彼は喜び、再出発を祝おうとしますが、彼女は離婚を切り出します。 そこへ入ってきた暴漢が突然に銃を乱射。多くの客とともに夫は・・・。
 

第三話「写真」
 
 写真家は一人で故郷マケドニアに着きました。十数年ぶりの故郷、友人たちの笑顔は全く変わらず・・・。いや、自分の家族は既になく、生家は荒れ果てていました。
 
 何より変わっていたのは、村がマケドニア人とアルバニア人に二分されていたこと。
 
 初恋(そして今も未練がある)のアルバニア女性の家を訪ねるにも、検問に近い扱いを受けなければ互いの集落に入れないほどで、男たちのぶら下げる銃が不気味に光ります。

オマエは「今の」村を知らないんだ!
オマエは「よそもの」だ。村のことに口を出すな!
 
 戦場を巡り、暴力の連鎖にイヤ気がさし、人まで殺めた自分が帰りたかった故郷は、もうなくなってしまった。争う世の中のつまらない縮図がこの村にまでも。
 
 世界を見てきた彼は、アルバニアの年配者と現状を嘆きますが、この村(=この世界)しか知らない村の男たちは簡単に「殺してやる」と口にします。

・・・幼馴染の男が射殺されました。ついこの前、ヤギの出産を喜んだばかりなのに。
 
 犯人とされたのは少年のように髪を刈りこんだアルバニアの娘。拉致された彼女を救いだした写真家は、もうなにもかもがイヤになっていたのでしょうか。
 
 「止まれ!止まらないと撃つぞ!!」 止まらない写真家。放たれる弾丸。

娘は一人逃げ、身を隠します。そこは・・・。
 
 

2時間ちょっとと長いのですが、3部の短編、美しい映像、シリアスさで飽きずに見ることができました。
 
 私は長い映画が苦手です。実際、90分を超えて飽きずに楽しませるって、とても大変だと思うし、やたら長い映画で楽しめたことも少ないし。
 
 これは力作でした。アルバニアやマケドニアは知ってはいても、こんな風に「そこに人がいる」ことをニュースではそう意識はしていなかったのもあって。
 
 本作では簡単に人が死にます。いや、殺されてしまいます。ヤギの出産シーンで、愛情あふれる描写がなされますが、それに比べてヒトの何と簡単に死ぬことよ。
 
 しかも、すべてが偶発的な、理不尽な暴力。殴り合いで済んだようなことすら、銃を持っていることで殺人に。
 
 映画の中では、猛々しい雰囲気の村で低く見られていた物静かな男が、銃を持ってから虚勢を張るシーンがありました。「○○人でない」というだけで、初対面の相手に「殺してやる」とすごむ少年の姿も。

地域紛争~戦争といった大きな暴力は、どこか人たち同士の小さな不信から始まるのかもしれません。
 
 それは互いの無理解、いや、相互理解可能である「人間」とすら認識しない態度と、殴り合いを殺し合いにしてしまうほどの「力」と、その制御ができない無分別によって。

本作は、時間の流れを無視して話が円環します。それは、同じことが繰り返されるようで、どこかで(愚行の環である)未来が変わることへの期待を忍ばせているように感じました。
 
 Before The Rain。 止められない惨劇の前に我々が為せるのは、写真家のように自分の足で立ち、歩くこと。匿名ではなく、顔をさらして発言し、行動することでしょうか。
 
 が、悲しいことに、人間の歴史は戦争の歴史でもあります。こうした「キレイごと」は、憎い相手に相対した時、我々を踏みとどまらせることが本当にできるのでしょうか? 
 
もし、自分の愛する者を目の前で蹂躙されて、指にかけた引き金を引かないでいられるでしょうか?
 
 
いつか、それは可能なはずと信じたい。少しずつ、少しずつ、不信を溶かし、自制心と愛情を育てて。うーん、でも難しいなぁ。
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内緒さん、こんにちわ。コメント、ありがとうございます。そして、暖かい言葉、本当にありがとうございました。